http://overcome02h.blog.shinobi.jp/%E6%9C%AA%E9%81%B8%E6%8A%9E/%E8%87%AA%E6%84%8F%E8%AD%98%E9%81%8E%E5%89%B0自意識過剰
じつは少し前から「自分は自意識過剰なのではないか?」と思うようになった。
仕事においてもそうだけど、自分が撮った写真を見ていると「やっぱりそうだよなぁ」とつくづく思う。
2年ほど前まで一眼もどきのコンデジを使っていて、そのころ通っていた写真塾で、先生を含め数人の生徒さんから「このデジカメでよくこんな写真が撮れるね~」と褒めてもらったことがキッカケになっているんだろう。
愛用のコンデジが故障して一眼レフに買い換えてからなお一層、自意識過剰に拍車がかかった。
口では謙遜しているが、心の中では「プロのカメラマン」になったつもりでいる。
たまたまPCのハードディスクが満杯になってきたので、撮りためた写真を整理していた。
コンデジで撮った写真も一眼で撮った写真も、いらないものをどんどん捨てた。
そんなおり、コンデジで撮った写真を見ていて「素直に良く撮れてるな」と思える写真が何枚か見つかった。
そして、最近の写真と見比べてみたら・・・一眼で撮った写真は素直というよりも重たい感じがする。
そういえば、コンデジで撮ってたころは、本当に写真が面白かった。
撮り方ひとつでいろんな表現ができるから。 それを素直に楽しんでいたんだと思う。
ところが近頃は、楽しんでいるというよりも、「撮らなきゃ」という思いが強くなっている。 具体的に言えば「もっといい写真を撮らなきゃ!」 冷静に考えればおかしい話である。
写真を仕事にしているわけでもないのに、どうして「もっといい写真を撮らなきゃ」いけないのだろう。
答えは簡単。
見る人から「キレイ!」とか「素晴らしい!」とか言ってほしいから♪
そのように言われることで自分で自分を認めることができるのである。
「プロカメラマンもどき」の仮面をはずしてみると、そこには「なんの取り柄もない情けないヤツ」がいた。 幼少のころからよく親に言われた言葉。
「勉強もでけへんし、手伝いもせえへんし。ほんまになんの取り柄もない情けないやっちゃわ」 みじめだった。
さらに「こんなんやったら、おらん方がマシやわ」とも言われていた。
そのたびに心の中で思っていたのは、
「いったい自分は何のために生まれてきたんだろう?」
「いらんのやったら、生まんかったらよかったのに」
こういったことが自己イメージとして焼きついていることが分かった。
それゆえに、何か人から認められる出来事があると、それにしがみついてしまい、さらに「もっと」を求めるようになったんだろう。
自意識過剰な状態は、そういったところから起こるんだと思う。
ようは、自分の劣等感を補償しているような感じ。
だからといって、自意識過剰が悪いことか?といえば、それは断言できないとも思う。
今年のWBCで不振だったイチローにも、自意識過剰なところがあるように見える。
あまりにも国民からの期待が集中し、その期待に「応えなければいけない」プレッシャーと闘っていたことだろう。
しかし彼は精神力でプレッシャーに打ち克った。
優勝を決めたあとのインタビューで
「最後の打席に立ったとき、みんな見てるだろうなぁ、視聴率が最高だろうなぁ、なんて思ったときはふつう打てないけど・・・」
というようなことを言ってたけど、これはある意味、自分で自意識過剰なところを認めていたから言えたんだろうと思う。
また、だからこそプレッシャーに打ち克つことができたのかも知れない。
そんなことを考えていると、なんとなくではあるが、自意識過剰を自覚できていれば乗り越えられる、と言えないだろうか。
自意識過剰な状態を自覚しているか?いないか?が大きな分岐点のような気がします。
そしてなによりも、いまその時の状態に気づくことが大切なんでしょうね。
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